ただ、おもねる時代に抗して・・・

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靴をつくるには、靴技を手にしなければならないのはあたりまえのコトである。
しかし、靴技を手中にして・・・靴技を学んでとはあえていわない。

「技」を学ぶといわず手中にしてとするのは、とくに手のうちでつくる手づくり靴は、それぞれ固有の「生活する身体」をとおし、靴を身体化する靴技であり、けして市場をとおす商品化する靴技ではない。

靴を身体化するとは、靴は足にとって別モノではなく、足(身体)と同化する、つまり靴を履いているとは思えないほどの一体感をもとめる技法でなければならない。
靴に足入れしたときのフィット感(静的評価)、そして歩きはじめて感じとる靴との一体感(動的評価)、この2つの適正評価は手づくりの必須の靴技になる。

靴技の本質(評価)はココにある。そして履く人の足で手づくりする靴が、靴の本質の至近距離にある靴技だとしらねばならない。

さらにいうなら、生活する身体を損ねる、つまり靴による足の変形、疾患を生じるコトなど意に介しない靴技は、厳然として否定しなければならない。
なぜなら「技」の出自は「なに人も、健やかに、幸せに生きる」がテーゼだからである。

それには、自らの手で、自らの足で靴をつくるコトになる。だからワークショップの存在理由がある。
くどいようだが、手づくり靴は身体をとおしての、ごく自然態の身体知であり頭脳知からはうまれて来ない。
だかに、手づくり靴を「学ぶ」とはせず「手中にする」とい理由である。

このコトは、手づくり靴ワークショップのミッションでもある。

自らの靴を、自ら手でつくる、その靴の表象は、
つくり手の生活の表象であり、
その人の「生」のアイデンティティであり、
その人ならでのパーソナリティーなのだから、

その表象について、とやかくいわれる筋合はない。
これが、つくるというコトの意味であろう。

しかし靴技も頭脳知にとりこまれ「学ぶ」となるとると、俗なヨコシマに翻弄されて靴の本質など、問いをたて考えるなどというコトなど無用の長物になり、ただ幻想にしかすぎない市場主義の要請におもね、技種に得々と上下の格差をつけ、その靴技におもねる主体のない、さもしいつくり手が目にあまるのも時勢なのだろう。

手づくり靴のつくり手を自任するなら、自らのライフスタイルと同化共有できる靴技でいいのであって、自らとかかわりのない靴技は、それこそ無用の長物である。

ボクはこのように思い想い、33年間、この国ではじめて、常時おおくて100人あまりの目的を共有(コミュニティ)する仲間と靴のワークショップ(工房ではなく手房)をつづけ、ワークショップのファシリテイターの役割をつかさどり、生活具としての手づくり靴のつくり手で、既製靴の技芸技能を競う靴職人ではない。

しかもモゲワークショップを通過し工房をたちあげ自立独立ている人は、他の靴技専修機関のなかではいちばん多いはずである。

ちなみに「モゲワークショップの評価」で検索すると、そのなかのひとり野口マサジが「僕が卒業した当時のモゲ・ワークショップでは 、正直言って技術的な知識や経験が不足しているだろうところは多少あったと思います。」と評しているが、きょう日、全国津々浦々、点在している靴のワークショップの出自はモゲからはじまっている。
靴のワークショップとしての、あたらしい概念をもとめ、築きあげてきたワークシヨップの技術的な知識や経験を評するべきで、自らの足で自らの手でつくる手づくり靴と既製靴は、似て非なる技法という知見もなく、既製靴むけの技芸技能を優位として比較、談じるのは、お門違いといっておきたい。

 

どうもこうも、問いをたて解を必死にもとめることをせず、モノコトを考えさせない、
ただ、おもねる時代に抗して・・・

 

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