文系は役にたたないか・・・

blog1-20160415

文系と理系、今、大学は、御上(文科省)のお達しで、国策グローバル戦略の即戦力につながる理系を重視し、すぐ役に立たない文系不用の圧力がかかり文系教養学部を終止する大学がふえている。

考えてみると、あの戦時には、理系ではなく文系学徒が、そうそうと徴兵され戦地にかりだされていったのを思いだした。

また、戦時中、ボクが通っていた、外地(中国・山東省)の日本人小学校の教育の主要時間は、軍部からの派遣された軍人による、兵士になるための軍事教練と体育が中心であった。

お国の教育指針は、つねに国策の緊喫をようする要請と一体であるのがよくわかる。

時代に則し「すぐ役に立つ」、「すぐに役にたたない」と分別するするのは、今の時代、あらゆるトコロで進行して、もはや時代の潮流となっているように見える。

そこで、「理」を靴の「技」とし、「文」を靴の「術」とおきかえてみよう。

技は「ワザ」、

術は「スベ」と訓読みすると、

ワザは、靴をつくることだけ目する技法、スベは、ワザを律する思い想い、さらに、そのワザで生きるスベを模索する。

この「技」と「術」が一体になって文化になると思う。

だから文化文明にとって「文」と「理」は対立概念ではなく、車の両輪であって、だから前へすすむコトができる。

「理=技」の片輪だけまわしていると、ひとトコロにとどまって、穴を深くほるだけの、井の中の蛙状態におちるのが目に見えるようだ。

俗に、専門バカといわれるが、手づくり靴のつくり手の中には、技法至上主義を有為とする「井の中の蛙」がたくさんいるが、これも文系の思惟のなさの現れであろう。

靴つくりを靴技だけにとどめるか、靴つくりを介して、よりよく生きる術とするか、よく考えてほしい。

ボクの文脈で、あえて「靴の技術」といわない理由がココにある。

次世代の靴養成機関は、とにかく「靴さえつくれればいい」とする実技中心の即戦力重視の顛末はどうであろう。

ボクが私淑する経済学者・内橋克人の著書「匠の時代」シリーズ」に、・・・よりよく生きることのできない技術は、それをつたえるべきではない」とする、一文があるが、靴技養成機関の指導にあたる役割を担ってるは、ほぼ既製靴あがりの職人達だが、どう受けとめているだろう。

あなたたち靴職人ゆえの実利技法主義偏向が、よりよく生きるコトができない技法を平気で手わたしているコトに、なんのためらいもない態度がボクには不思議でならない。

文系は、問いをたて、必死にその問題の根源的な原理をおいもとめていく系で、すぐ役にたたなくても、モノコトの本質をわきまえなければ、よりよい生き方にすじみちを通すコトはできないと思う。

文系軽視は、即実利だけを評価する域で、靴にかかわる情報は市場主義にメディアも加担し、靴の技芸技能だけが評価され、「靴とは何か」「靴はどうあるべはか」「靴の本質とは」「靴の何が問題か」「靴とジェンダー」などなど、にたいして、問いをたて、

その解をもとめる思想が技法にフィードバックされて、あらたな技法改新がうまれてくるはずである。

いつまでたっても、手縫い革底技法を靴技の至上(市場主義とメディアがつくりあげた幻想)とする考古学的技法を信望する時代でもあるまい。

このような文系の思惟がほとんど情報化されてこない。

もっとも考えなければならない文系の問題は、唯技法論がいかに人身に危害をおよぼしているか・・・

それは技法の倫理にたいする問いではなかろうか。

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