靴技を専門解ではなく普通解にする闘い

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なにかを、自らの手でつくる。それも自ら暮らしにかかわる、なにかを「つくる」。

「つくる」とし「創る」としないのは・・・

「創る」とすると、まだ、だれも創ったことのないモノコト、まだ、だれも見たことのないモノコトであり、そのモノコトが、これからは、こんな自由な生き方もあるョって・・・考えさせられる哲学がなければならないと思っている。

「創る」るという、だれでもできることではないモノコトが、クリエイティブとかアーティストとカナ文字が横行すると軽々しくなって、だれでも、クリエイターになり、「歌舞伎の見得」のように、大向(客席)に向かって「見得」を切るごとくに、市場という大向こうに、どうだ「参った」かと見得ならぬ、だだ「見栄 = 見栄え」のいいモノコトが市場に溢出する。

これに半畳をいれ、もちあげるのがライフスタイル系ファッション・メィデアではなかろうか。だから、その手の雑誌はおもしろくない。

市場という檜舞台でのメジャーな演者を夢見ても、手づくり靴は、いわば土着な田舎芝居で演じるマイナーな旅役者のようなものである。

その土地で暮らしをもつ、せいぜい100人ていどの小さな共同体に根をおろし、投げ銭が飛んでくるような共感の集まりみたいなもので、つくり手の暮らしがなりたつ。

田舎芝居の板場の舞台で、檜舞台で大見得を切る芝居をうつような手づくり靴つくり手もいるが、投げ銭はとんでこないだろう。

この例えのように、「作家展」としょうする受注展での「つくってあげます」という作家性は、「創る」をみとめなければ、中々、なりたたない。

手づくり靴と既製靴は、いつも、いうように似て非なるものでありながら、つねに相対の関係にある。

そこんとこを、よくわきまえることが手づくり靴の存在理由 = アイデンティティである。

足元をみつめる、暮らし、生き方を、手づくり靴を介して、どのようにつくるか、それが見えてこないつくり手はでは意味をなさない。

暮らし、生き方から、自然に靴のカタチが派生してくるはずである。

そして、なによりも「つくってあげる」ではなく「いっしょにつくりましょう」という、つくるプロセスの同時性、共有性、共感性こそ、手づくり靴の本領になる。
だからワークショップなのである。

手づくり靴をつくる手元から感じるのは、今の世の中、なんでもかんでも、人の生き方まで、市場主義の価値原理に支配されていく。知らず知らずに、まきこ込まれていないか・・・この流れに背を向けるのが手づくりの行き場である。

24年間つづけてきたワーカーズ ( 手作業への共有、共感の場、靴手房をたちあげる手だてをつたえる ) を終止したのも、ここまで述べてきた思いが、つたわりにくい世の中になり、市場主義に翻弄されていく様をみたくなくなったからである。

他の靴技専修機関も、靴づくりからファッション・マーケティングへ関与できる、つまりシューデザイナーの養成に舵を切ったと聞いている。

モゲ ワークショップは、「お靴をつくるお教室」とする習いことではなく、在り体にいえば、靴が人の身体性に、どのようにくみこまれているかを確かめていくプロセスだと思っている。

ディヤーズには在籍20年を越える人か数人いる。靴づくりを、暮らしの身体にとけこませている、けして習いごとでは20年以上はつづかないであろう。

ディヤーズと他の靴手房で靴づくりをしているふつうの人たちに・・・

パターン メーキング テクニック (靴型紙技法)は、これまで専門科の専権科目であったが、「サンデー スタディーズ」としてカリキュラムを組むことにした。

「サンデー スタディーズ」の詳細はここをクリック

靴にかぎると、技能技芸とキァリアでしか評価しない職人が大嫌いなのは、「素人は怖い、素人に靴できるか」と職人の大御所にどやされた32年前に起因しているのだろう。

考えてみるに、この32年間、靴という専業職を、なし崩しにする闘いをしてきたようなものだ。

きょう日、手づくり靴が、あたりまえになったのと呼応するように、浅草の既製靴の地場が衰退していくのは、なにを物語っているのだろう。

専門職ではなくふつうの人が、自らイメージした靴の型紙を切り、出自から靴にしていく人が増えるのは愉快なことでなかろうか。
そういう人が、どんどん増えていくことに専念したい。

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