mogeはこんなトコロです

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1983年に、この国ではじめて、手づくり靴を介して「生き方」を希求する人たちが集まる [場] ワークショップをたちあげ今日にいたっている。
バブル前期の33年前のことである。その頃、思ったコトは・・・
これからは、自ら生きるカタチを、消費主義を煽るマーケットの論理と決別して、自らの「感性と美意識」を主体し、手をとおして

思う生き方、
望む仕事、
願う暮らし

をできるだけ思うがままにつくっていく。
そのような思い想いが暮らしの中心にすえる 様式 が普遍になるはずだと・・・

その思いを手づくり靴にたくすコトになる。

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なぜ手なのか・・・

手は装うことができない。
手はリアルにしか働かない。

つくるプロセスを手でなぞりながら、とにかく自らの身体知験が生き方をつくる。
ですから、「お靴をつくる、お教室の、お習いごと」と靴だけつくれればいいとする人には向かない場です。

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本来、つくるということは、このコトでありこのプロセスを

共時、
共有、
共感する、
そして互いに分かち合う。

そんな [ 場 ] をワークショツプという仕組みでつづけています。

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思えば、33年前、アメリカの社会学者アルビントフラーが著書「第三の波」で予見したように、

「コンシューマー」から
「プロシューマー」へ、

消費万能の商業主義から決別して、自らの手で暮らしをつくる・・・ 、それまで無かった新たな仕組みをつくってきた。

これがワークショップに自然に行きついた経緯です。

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暮らしの用美を自らの手でつくる。
「足思手考」をもって「靴の本質 」を・・・ 真っ向し、芯にすえる。

それには、既存の靴市場、既製靴の論理と価値付けの仕組みから離脱する決意がいる。

シューワークショップ・モゲ (moge塾)は、 他に 類がなく、独自の存在として、また先駆として位置づけらている。

手づくり靴とは

ほんとうに、わかってないなー、と思うのは既製靴と手づくり靴は、同じ靴であってもまったくの非対称であり、このコトは、もっと議論すべき問題である。

かたや、市場(マーケティング)で流通する商品(モノ)の客体的評価になるので、あーでもない、こーでもないと、売り買いごとで評価がされるが・・・

かたや、手づくり靴は、自ら暮らしの意識、美学の表象であり主体的評価になり、なに人も、とやかく市場の論理で評価する域に無い。

靴にかかわる人にたいして「あなたにとっての靴の評価は」と問うコトにしている。
かえってくるのは、既存靴市場が要請する評価基準に準づる答えしかかえってこない。
だから手づくり靴としながら、平気で既製靴をつくるコトになんの疑問をもたない人がいるが、手でつくる意味がまったくないことに気づかないのだろう。

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既製靴も手づくり靴も、靴の評価は・・・

フット・フィッティング、
グッド・ウォーキング、

つまり・・・
静的評価(足入れ時)、
動的評価(歩行時)、

をどこまで追い求めている技法か、が問題になるはずだ。

既製靴市場評価は「売れるか」「儲かるか」かの2元論に収斂される。

たとえば、靴技そのものには上下の差がないのに、

底付け技法、
上質素材、
技法の熟達度

などで評価するのは、すべて市場 (マーケティング)の仕掛けなのです。

人とは、厄介なもので、どうしても・・・「どうだまいったか」 と、たんに技芸技能主義におちいり、そんなコトは市場幻想にすぎないのに技法に

優劣
格づけ

で「見栄をきる」「得意がる」、そのような技法の領域は商業市場向けであり、このような既存靴市場の要請にし ばられる価値体系を

「閉ざされた技法」

という。手づくり靴とは無縁の領域であるコトを知らなければならない。

しかし、手づくり靴のつくり手のなかには、自らが主体であるコトを見失なうと、「虎の威を借りる狐」のごとく、既存靴業界の権威に依存していく主体のなさはどういうコトだろう。

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では [開かれた技法] とは何か・・・

手づくりの技法は、「売れる」「儲かる」仕組みとは決別して、もっと・・・

自由で、
楽しく、
やさしく、

明快忌憚ない技法というのがあってもいいのではないか。

あくまでも市井の暮くらしの 技法であって、生きるスベ (術)を具体するワザ(技) でなければ [ 術・技 ] とはならないと思いつづけている。
だから技法と技術を異なる概念として一線をひかなければならない。
暮らしは手の「作・業」でつくるもの、けして「手・技」でつくものではない。
大昔から人はみんな手の所作で、器用、不器用にかかわりなく、自らの手で暮らしの豊かさを紡んできた。
手づくり靴は「不器用も才能のうち」でいいのである。

とにかく技法というものを独尊的な専門家の手をわづらはせるのではなく・・・ 自分の手でつくる、普通につくる。
そんな領域があってもいいのではないか。

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昔、老靴職人に「素人に靴ができるわけないだろう」と一喝されたのは、もう33年前のことで・・・
きよう日、その素人が玄人(既製靴職人)より「靴の本質」を真っ当しているのは皮肉なコトではないか。
手づくり靴は、社会階層を腑分けする特定域の技法ではなく・・・
足元のおぼつかない幼児靴から、足元のおぼつかなくなる老人靴まで、人生全域にわたつてかかわるコトを宗とする技法でなくてはならないと思っている。
そして、どんな難しい技法でも、老若男女、だれでもつくれる・・・容易でやさしく、かみくだいて手わたす技法を [ 開かれた技法 ] としている足し靴のいいかかわりのを思い想うと、いつしか、そうか手づくり靴とは・・・

「善き動きをつくり、それをつたえる」 コトに気づく。

たんに靴を、モノ性に封じ込めてはならい。
そして自らの手で靴をつくりたいと思う人が集まる [ 場 = ワークショツプ ] をつくり、「足思手考」を真ん中にすえて、いっしょにつくる ワークショップは、ファシリティターの役割を務めることになる。

先生、生徒の関係ではない。
ましては作品ではなく生活の用具である。
だから・・・

靴職人面で、
靴作家面で

技法をつたえるといった態度は取らない。

あくまでファシリティターの立場でなければならないと思っている。

いっしょにつくるプロセスを経時に共有し共感する。これが、「つくる」プロセスではなかろうか。
だから経時に、共有、共感できないモノづくりは、とてもできなくなる。

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