理想もお金で買える時代

これは、きしくも、ちょうど6年前(2013/1123)のプログですが、今一度アップします。
この6年の間、この特集誌は、売れるとみえて、なんども企画出版されています・・・

浅草のシューデザイナーのあつまりに呼ばれ、何か話しを・・・と乞われたときの話し・・・
「ボクは、だれでも自らの手で靴をつくる・・・このコトガラをおしすすめるために、1983年にワークショップの仕組みをかりて、はじめましたが、きょう日全国、津々浦々このムーブメントが広がり、かなりの数の人たちが自らの手で靴をつくっています。
こんなコトはありえないコトだが、大方の家では食事は手のまかないでつくり生活をしているように、みんな靴を。あたりまえの生活技として自らの手でつくるようになったら、シューデザイナーのあなたたちは、どうしますか・・・

なぜ、このよな話しをするかというと、それは、あなたたちは、シーズンブログラムにしたがって、これでもか、コレデモカと、市場の要請にこたえ、「今、これが新しい」と欲望を喚起し、大量にマーケットに靴を供給し、売れるか売れないかの評価のために懸命にシゴトをこなしていますが、「余計」なコトをしているのではないか・・・と、思ったコトがありますか。
クリエイターを認んじるシュー デザイナーは、今、何をしなければならないか・・・とする命題をつきつけてみた。
短サイクルでの消耗戦をくりかえす市場という実体のよくわからない虚構に翻弄され、右往左往しながら、枯れ木も山の賑わいとばかりに、なぜ、どうでもいいモノをたくさんつくらなければならないのが、あなたたちシューデザイナーの実体でしょう。

一方で、履く人の足で丸ごと一人の手作業で靴をつくる。つくられた靴は、つくり手の「生きる = 暮らし」を、豊かな美意識と感性の表象であり、暮らしの密度の度合いは、とても市場が要請する評価に翻弄される、シューデザイナーが夢想にもしない、市場とは切り離された、地に足のついた靴のつくり手がいるコトを知らねばなりません。

言いかえれば、この手の雑誌のつまらないのは、エディターは、ただ、なんとかでっちあげた「理想の生活が買える店」などと、市場にヨイショしたキーワードの括りで、セレクトショップのコレクションをフォーカスするしかないのか。ことごとく「後追いトビック」に終始するのは、エディター在り体が問われる世界観、文化観の欠落が起因していとしか思えない。

「理想の暮らしが買える店」という見出しのセレクトショップ158店を紹介する雑誌を手にとる。

「後追いトピック」は見たままと、ショップ オーナーが言うとコトを、そのまま書き写しとる、いわば使い走りていどのシゴトでしかなく、すくなくともエディターは、問題をつきつめ、まだ存在しない創造未来の方位(理想)と対置させて、その評価をあおぐのがシゴトのはず。

「理想」も金で買えると言い切っている。もはや言葉を失う。

セレクトショップの「達人」オーナーなどともちあげて、権威づけたメディア キァラクターづくりに血眼になる常套は、恥も外聞もないエディター連の体たらくを如実に表した特集になっている。
本屋の雑誌を積み上げている平台の横で、この雑誌を手にとった女子3人組が発する「うわー、この本、怖いー」と耳にはいってきたが、これが普通の人のごくあたり前の感慨だろう。

「理想」という観念は、個人にとっては固有の価値の実現を目ざし、どこまでも努力し手中にしていく精神強度が不可欠。なみ大抵な事ではない。その「理想」もお金で短絡的に手にいれよう・・・とのお薦めである。

暮らしを、生きるを、自らの手で創る。その立ち位置から概観すると、とんがったシュー デザイナー、自尊だけの靴作家、自律できないエディターといい、もはや滑稽であり、もう結構(うんざり)・・・

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