主題・「靴がつくれなければ何もはじまらないが、靴がつくれても何もはじまらない」

副題靴の手房をたちあげたいと考えている人たちに・・・」

たしかに、モノによっては技芸技巧を評価する分野もあるが、メディアの「職人礼賛」が度を過ぎたのか、靴も、その同列において「わたしの靴は、いわば芸術作品なので、できたら履かないでほしい」と真顔でいう某、職人がいる。
また、靴作家と自尊して「○○靴作品展」をする人、つくった靴を生徒の「作品」とする靴教室もあるが・・・ぼくは、靴を「作品」としての評価はしない。

なので、いわゆる至芸(メディアのマーケットにたいする忖度造語)といわれるハイマーケット御用達の手縫い革底技法(ハンソーンウェルテッド)を手につけなければ一丁前の靴職人であらずと、思い込まされ作品、逸品とする一元価値の間口の狭い市場で生きる方位に踏みださず・・・
まだ、だれもやっとコトなかった、靴を生活する身体によりそい、足もとのおぼつかない赤ちゃんの靴から、また足もとのおぼつかなる老人の靴まで、人の生涯にかかわる、間口のひろい多様な価値を受け入れる方位に踏み出すコトにした。
言い直すと、靴を専門技にしないで、老若男女、だれでもつくれる「普通技、または生活技」として、先生と生徒の関係ではなく、同じ立ち位で共業、共有する、ワークショップという仕組みに与して、1983年、シュー ワークショップ・mogeをたちあげた。

この3カットは、明治通り沿いでオーダーシューズをはじめた1986年ごろの靴手房
奥隅から、グラインダー、プレス、スキ機、動力ミシン中古で購入、店名はまだ表示してなかった。

すでに社会的に認知されている職域で難儀するより、靴を「作品 = 商品」にしないで「生活具」としてのあらたな地平で、もっと自由にふるまえる仕事のを仕組みを、じぶんでつくろうと思った。

とにかく一人仕事とは、自分で考え、じぶんで行動をおこさなければ、仕事にならないコトを、心しなければならない。
なぜなら、踏み出す一歩の方位が、生き方を左右するからである。

ここで、靴職人の生き方と決別し、生活すリアルな身体と向き合い、市場の要請にそう既製靴の作法を解体して、あらたに生活技、普通技としてシンプルで、ファシリティーな靴を再構築してみた。
まったくゼロからの自遊自学で、ぼくには、師匠、先生という筋はなく、なので、じぶんを靴職人といわず「靴のつくり手」いっている。

それと、手づくり靴でありながら、寄らば大樹の陰(あくまでも陰)  ではないが、メジャーな既製靴市場の周辺にとどまり中途半端の立位で難儀している人が多々いるが、知っておかなければならないのは、同じ靴で、既製靴と手づくり靴は、まったくの非対象で、別ものだと認知しなければ、手づくり靴のなんたるかに踏み込むコトはできない。

シュー ワークショップをたちあげて36年、この間、既製靴製造の現場は、もはや次代を担う世代を育成する知力、体力もないほど衰退、悪化の一途をたどっている。靴の産地・東京浅草の地盤沈下は、目を覆う事態に陥っている。それにもかかわらず、相もかわらず、既製靴技養成機関は、10年1日のごとく旧態然とした教科を、ただ惰性でやっているにすぎない。そして、いまだに、その既製靴の技法をもとめる人のいるのも解せない。早晩、既製靴での靴職人系養成学校は、この国から消滅するのも時間の問題だろう。
なぜなら、既製靴製造元は分業職手を望であって、靴足分丸々一人でつくる技量をもとめているわけではない。
その疑問を養成校に問うと「わたしらは、靴をつくるコトだけを教えているので、就職は業界の問題」と、すげない答えがかえってきた。
私淑する経済評論家・内橋克人著「匠」で、「匠は、よりよく生きることのできない技術は、それを教えるべきではない」の一文があるが、まさに、靴だけをつくるコトだけではなく、靴を介して、生きる、生き抜く道筋をつけなければ、養成機関の存在理由はなからである。
行き場を失った既製靴技を手につけた人たちは、安直に靴作家、または靴職人工房でオーターメイド、セルフメイド教室をはじめるので、その数は、いまや飽和状態となり、生業としてなりたたない現実があり、地方はまだ活発だが、東京では、いよいよ淘汰に入ってきたので、地方に転移する人がふえている。

ここで、次代を生きのびる手づくり靴の手立ては、どうあらねばならないか再構築が喫緊の課題になってきた。

靴だけをつくるのではなく、まず、ふりだしに戻って、「靴の本質」を問いなおし、手づくり靴にとって、今、なにが大事なコトか具体するコトである。靴は、身体の健康とかかわり、とりもなおさず「靴の身体化」が靴の本質となる。

身体化とは、靴が身体の一部になるコト、それと、足元のバランスの悪さか、経年と共に身体全体に波及するので、足の過剰負荷をとりのぞく調整もしなくてはならない。つまりハンドメイド シュー メテキングは・・・
フット フィッティング・・・
バランス アジァスティング・・・
の、この2つが相まって、適正化するコトが、手づくり靴のミッションとなり、そこまでしなければ、手づくり靴で生き抜く持続可能な生き方にならないからである。シュー ワークショップ・mogeは、靴の本質である、この2つのファクターの融合プロセスの技法化につとめ、今日に至り、36年生き抜いてきた。その2つのファクターとは・・・

さらに、手づくり靴で生き抜くには、点から面へ・・・プロフェショナル スキル(靴職人)からソーシャル スキルへ・・・
靴づくりを介して、社会とのどのような関係性をつくるかに軸足をうつすコトが必須の条件になるだろう。

買うよりも
つくって貰うよりも
じぶんの手でつくるセルフメイド・ワークショップでの「共業」、「共有」するホスピタリティが、関係性をふかめコミュニティーをつくるコトが持続可能な手づくり靴の未来となる。
モノコトには「その本質とは何か」を問うコトからはじまるが、技芸技巧を自尊する靴職人から「靴の本質」とはのロジックを聞いたコトがない。たんに、職人む先生と生徒の「お靴をつくる、お教室の、お習いゴト」ではない。

さらに「#KuToo」が提起した靴と社会との関係性にたい、手づくり靴は、どのようにコミットするか、つくり手としての、じぶんの立ち位(ポリシー)を明確にしなければならないと思う。靴の社会的問題は、靴による足の変形、疾患が、ほぼ「靴が足が合わない」コトに端を発し、もう一つは、「男は男らのしく、女は女らしく」。この「ジェンダーが問題」で、男は、かなりのオーバーサイズで、足を大きく見せ、女は足を小さく華奢に見せる、その装置としてのヒールパンプを履かなければ女でない刷り込みが起因している。

手づくり靴のもう一つのを生きるスキルは、バラレル(平行)スキルとして、ゆっくりマイベースで学び、靴を介して人生を実りある、人と人のかかわりの豊かさをもとめる方位があると思う。パラレル スキルとは・・・
経営学者のピーター・ドラッカーの著書「明日を支配するもの」1999年発刊・・・もう20年も前に 予見し提唱している。 この2つの働きを平行( パラレル = parallel )しておこなうコトを「パラレル キャリア」というキーワードにした。 なぜ、あらたにもう一つのスキルが必要なのでしょう・・・ すでに就業している分野の働き方 (スキル)とは別に、これからは、もう一つのスキル(モノコトづくり)を介して、それまで接点のなかった多様な履歴の人とのかかわり、社会と 人との関係性を広げ、老後になっても個として自律し、より豊かな働き方、生き方にしよう・・・という時代がくる予見ですが、まさに今、そのコトが現実となっているのです。
その意味で、週2日の休暇の内1日を当てて学ぶ、フリースクールの日曜学校・moge時塾にはじめた所以です。

日曜学校・moge塾とは

 

追記
「靴の技法」と「靴の技術」とつかいわけるのは・・・
より良く生きるスベ(術)を具体するのがワザ(技)と思うからで、よよりよく生きるコトのできない技法ならせば「技術」とは言わない。それでも大方は、なぜワザ(技法)の巧みだけをめざす靴職人になりたがるのだろう。そうではなく、靴を介してより良く生きるには、・・・とする思慮こそ、持続可能な生き方であるコトを、この36年、シュー ワークショップ・mogeは実践してきた実験手房でもあります。

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