making

 

 

この一文は、久しぶりに発刊された「シューフィル」aging mook 2018に特別寄稿したエッセイです。

making

youtubeで「靴のつくり方」を検索すると、見よう見まねでも つくれるほどの数がある。あくまで「つくり方」であって、 「靴は、どうあらねばならないか」についの靴のエッセンス(本質)をあきらかにする情報はない。
大方は、靴をカタチにすれば万歳のとなり、そのうえ技芸技巧をこらした職人芸でうならせけば、さらに万々歳となる。
これが、この国が、靴をつくりはじめて綿々とつづいてきた靴職人の一元評価なのである。
この技芸技巧礼賛の一元評価は、
靴の本質についての思い想い、
考え方(思想と理論)について語り合えない、
よって疎通がない、
これから(未来)について問う共通語がない。
なので答がだせない。
この言語失調症が靴づくりの現場を、さらに閉塞低迷させている。
「芸は身を助ける」というが、手に靴技をつけるのは、より善く生きるくコトを希求するからであろう。
「靴がつくれなければ何もはじまらないが、靴がつくれても何もはじまらない」。
いま、手づくり靴(既製靴も同様)が、ダッチロールのように迷走はじめているのは、技術の本質を、見極められないからなのだ。

よくいうことでだが「技術」の述語を「技」と「術」に分けて、訓読すると「ワザ」と「スベ」にな り、技術とは「より善く生きるスベを具体するワザ」となり、 だから靴だけをつくるのは「靴技」どまりで、その靴技で、 より善くいきるコトができるなら、「靴の技術」といえる。 生きるだけではなく、いかに生き抜くか、靴をつくる技法だけではなく、その靴技が「生きる技術」となっているかが問題なのだ。
複雑に入り組んだ、とてつもない大きなチカラに収斂される集団主義(メジャー)の社会のなので、個主義(マイナー)で、しかも身体部位でいちばん小さな手で、どう生きていくのかを考えると、じ つは靴をつくるコトが一義ではなく、いいかえると靴を介して「生き抜く技術」を手につけなければならない。 私淑する経済評論家・内橋克人の著書「匠」シリーズに、

「匠は、 より善く生きるコトのできない技術は、それをつたえてはいけない」重い一文があ。 より善く生きるとは・・・
望むう生き方、
願う仕事、
思う生活、
が三位一体になるコトの意味だとすると、 仕事は仕事、生き方は別という、今までの二分法ではなく仕事と生き方を一体化した work as life を具体する技術でなければ、技術というわけにはいかない。
そうすると、手づくり靴での働き 方は、インサイドの製靴業での分業職手の仕事(仕える事)ではなく、業界外、つまりアウトサイドに出て、ひとり仕事の生業(生 きる業)にしなければならない。
その意味からすると、多くの靴技専修機関(養成してないので専修とする)は、
「わたしらは、靴をつくるコトを手わたしているのであって、仕事は業界の問題でしょう」と頬かふりをして、ただ 惰性でつづけている。
その靴技専修機関には、もはや人が集らず、なりたたないほどの窮地に陥っている。 その顛末は、願う仕事につけなく、ワニを片手に業界(インサイド)を彷徨う次世代を、靴難民などと流布される現実をみないで、業界中枢は、総体として組織的に新らな育成の仕組みをつくり未来を託す次世代に無関心なのは、もしかすると、じぶんたちの代で靴業を終止するつもりなのかも知れない。

この疲弊した業界に未来の展望がもてないので見切りをつけアウトサイド(業界外)で活路を必死でみつけだそうとする次世代にたいして・・・
「これだけ靴の学校がだきて、注文靴をやろうという人がでているけど、製靴工場で働こうという人がいない。業界全体が体力がなくなって就職先を用意できないのも問題だれど、肝心の学生たちも工場で働く気がない。そういう人は経験もなく中途半端な腕なのに、靴づくりの教室わひらくんです。 でもね、何年かは、人をだませるか知らないけど、被害に合うのはお客さんであり、生徒さんですよ。つくりぱなしだし、こんなことやっていて、手縫いの靴にお客さんが、本当に戻ってくるかどうかね」。と危惧している。
靴の産地・東京浅草史といえる『靴づくりの文化史』現代書館刊からの一文抜載であるが、これは合わせ鏡で、危惧すべきは、この文言の人が属する靴産地・浅草の現状を如実にあらわしているコトに本人が気がついていない。
「天に向かって唾をはく」とはこのことで、これも技芸技巧一元評価の一端であり、メディア「職人礼賛」と相まって、靴をつくるなら、靴職人でなければ・・・と思い込む人があとをたたない。技 = ワザと、生きるワザ = 術は、いわば車の両輪で片輪だけの技芸技巧が熟達しても、その技で、いかに善く生きる、善く働くかの両輪が等しくまわらなければ、穴を掘るだけで、前に進むコトができず、いわゆる専門技バカに陥いって生きる技術になくてはならない、共同体としての社会との関係性(人と人との間で生きる)をどうつけようとしているのか、まったく見えてこない。
技芸技巧に秀でた職人の先達に欠けているのは、靴のグラランド セオーリーで、これが決定的な「負」の連鎖となっている。

「靴職人であらずんば、人なあらず」、そのなかでも、アーチスト症候に感染して、技芸技巧にプライドをかけ功名を願う「靴作家」と括られ悦にはいる不思議な人たちがいる。
アートの語源をしらべるとラテン語 = a r s = アルス で、これもまた「生きるための技術」を意味する。
靴つくりの材料の仕入エリアになつている地下鉄銀座線・浅草駅プラットホームの壁面に三善堂(仏具の電飾看板がある。そのヘッドコピーが・・・ 「心は形をもとめ形は心をすすめる」とある。この言葉をうけとめ、内面化するつくり手は、どのくらいいるだろうと思っているが・・・ つくる = 作る、造る、創る。漢字をはめると、このようになる。 モノコトを創るとは、その「本質」「普遍」をもとめ、いかにに生きるか、その切実な表象であり、より「自由へ」心を解き放つ形象をアートというのである。
きょう日、みわたすところ・・・ 靴作家という括りに追い込まれ、その自尊を最後の砦する人たちに、新たな生きる思い想いを靴にこめて、これからの生き方の方位をしめす表象にであつたコトがあったただろうか。

技術は、その本質から立ち上がる。
まず靴のグランド セオリーありき、 靴づくりの技法は、なにから立ち上がるか、その本質を見極めよう。 「なに人も幸せに健やかに生きる」すべての技法の基底は、ここから始まる。 まず、歩きを機能化する、 ウォーキング ・ファンクションナリティー・ [ walking Functionality ]の技法でなければならないとと考まる。[歩き=動き]の機能化とは ・ ・ ・
足入れしたときのフットフィッティング (静的評価)、
歩行時のグッドウォーキング (動的評価) 、
この二つの技法 を融合し、歩行時の動的平衡(善きバランス)をととのえ、靴を身体化することにある。
要約するとバランスとフィッティングであり、抽象すると・・・
「善き動きをつくり、善き動きをつたえる」。
この言葉は、メデカル系、シューフィッター系、フットケア系、足にかかわるすべての仕事の役割である。
既製靴がクリアできない、足の変形、疾患をおこすような靴は、手でつくる意味はない。
また、足入れするコトのできない作品とする靴は、靴といえない。
靴は履いて歩くから難しいのある。なぜなら・・・
身体とかかわらない、
身体と切りはなされた
市場評価だけを職能とする技芸技巧という幻想に、靴を問う本質はないからである。
この本質こそ、手づくり靴で「生きのびる」強度となり、生活する生身のリアルな身体にそう技法であるコトを知らねばならない。

さうすると、働き方はどう考えたらいいか・・・
手づくり靴は、ひとり働きの手作業ゆえに商業流通にのせる働き方は不能なのに、よらば大樹の影とうけとめているのか業界(インサイド)の仕組みとどまる人がいるが、手づくり靴と既製靴業界との親和性なく、あくまで「影」の存在となりインサイドの都合で使い回しされるコトに甘んじる主体性の脆弱な位置に甘んじなければならない。
手づくり靴で生きるなら、アウトサイド(業界外)で、新たに自分で働き方の仕組みを主体的につくらなければならない。

靴づくりは専門技なので「つくってあげる」と靴作家として注文靴をつくる工房を立ち上げ、片手間に靴教室を兼業すか、
生活は、できるだけじぶんの手つくることをすすめ、靴は専門技でなく普通の生活技 ・DIY・Life・ として靴をつくるプロセスを共有する、「いつしょにつくろう」と、共業、共感するワークショップの仕組みに与して、実践するか、
二者択一になる。

moge がワークショッブを選択したのは、靴は・・・
生活する身体にかかわる具体であるコト、
その身体に問い、生身を通して掴みとった「解」を拠りトコロにしてみちびきだした技法に重きをおき、
共につくり、
共有することで、
かかわりをひろげていく
「共感の生活コミュニティ = 場 = ツール」であるコトが、手づくり靴で生きる持続可能な生き方だと思うからである。
ワークショッブは、注文靴の仕事では、感じるコトのできない共感の深さを知ると、もう注文靴は出来なくなる。
色々な履歴(個性)の人の「集まり = 場」で、なにを分ちあい、共振できるか、今様の言葉でいうなら、クオリティ・オブ・ライフにつながって、いうなれば、靴を介して暮らしを豊かな感性でつつみこむ「場 = ツール」をつくる技術でもある。
じぶんの足を知り、じぶんの手でつくる。
その靴の表象は・・・
つくり手の美意識の生活表象であり、
その人の「生」のアイデンティティであり、
その人ならでのパーソナリティーなのだから、
その表象は自然(じぜん)となる。
素人の自然体と玄人の作為体と、どちらに真実があるかは問わない。

手づくり靴を技芸技巧の巧を競い自尊し功名を願う、行き場の無い、靴職人系作家の道に踏み出すか、
手づくり靴を介して「関係性」を広げ生活基盤をコミュニティもとめ「活私共生」するか。
この二つの方位のどちらが、生きる、生き抜く持続可能な技術かは考えるまでもないだろう。
手づくり靴は、靴をつくる道具を使い、商品や作品をつくるのではなく、
靴をつくる道具で暮らしの道具をつくるつくり手であり、
靴をつくりたい人とブロセスを随伴するファシリテーターの役割を担うのであって、ワークショップは・・・
工房での親方と弟子、
教室での先生と生徒、
という上下のかかわりではなく、靴づくりの世話人で、ボクは「あいつは靴職人ではない」と批判されますが、その通り、靴職人だと思ったコトは無い。 「おにぎりを握れる人は、だれでも靴もつくるコトかできると、専門技を普通技するムーブメントを、もう35年つづけている。 ワークショップで靴づくりをする素人が、靴の本質の至近距離にいるコトを知らねばならない。なんと皮肉なコトだろう。

1980年に出版されたアメリカの未来学者であるアルビン・トフ ラーの「第三の波」に、第一の波は農業革命、第二の波は産業革命、これから第三の波として情報革命による脱産業社会(情報化社会)になると予見、
今は、つくる = producer、つかう = consumerが別々だが・・つくった人が使うプロシューマー = posumerという造語の概 念化し、だんだん物は売れなくなる、これからはモノ = hard よりコトガラ = softの二つのキーワードに同調して、1983年にシューワークショップ・mogeをたちあげた。
そして今、「パラレル キャリア」という生き方、働き方が提唱れている。 「バラレルキャリア」というのは、経営学者のピーター・ドラッカーの著書「明日を支配するもの」1999年発刊、もう20年も前の予見だが、これから100歳人生を迎えるにあたつて勤務年数よりも、人生の方が長命るわけですから、勤め仕事をしながら、休日を活かし、もう一つの技術を習得し・・・平行( パラレル = parallel ) 持続 可能なもう一つ技法を習得して、より人生を豊かなものにしようというこれからの生き方、働き方の方位をしめす考えだと思います。 厚生労働省も、パラレル キャリアの働き方、副業・兼業禁止 を見直し原則容認となりました。
この生き方はmogeの生き方と軌道を一つにするので今年はmoge塾でバラレル キァリアのためのオープンスクールを開講します。

らの生き方、働き方の方位をしめす考えだと思います。 厚生労働省も、パラレル キャリアの働き方、副業・兼業禁止 を見直し原則容認となりました。
この生き方はmogeの生き方と軌道を一つにするので今年はmoge塾でバラレル キァリアのためのオープンスクールを開講します。

シューワークショップ・moge & moge塾 主宰 勝見 茂

勝見 茂・かつみしげる
● 1933年生、集団主義と拮抗して一人仕事の個主義・生業で、いかに生きるコトができるか・・・が人生の課題。 ●1974年、一人仕事で「moge」を冠し既製靴市場に参入、企画問屋という生き方の道を拓く。 ●1983年、靴のワークショップに与して、手づくり靴で生きる道を拓き、現在に至る。
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2018/0325

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