2010/ Jun _ 14

靴をどう評価するか/セメンテツドは蔑称か

手づくり靴は、底付け技法で優劣をつけ評価するのではなく、まず「手づくり

靴」をキーにして、手づくり靴とは何か(本意)、手づくり靴は何をしなければな

らないか(本義)についての共通言語をもてば、自ずと評価の論旨がみえてくるは

ずである。

言葉は思想である。

その言葉で論をつくせば、なぜ2重手縫い革底の技法だけを特化して靴の至高の

技法し、なぜこの技法を偏執に固持するか、そのからくり(欺瞞)がさらけださ

れてくるはずだ。

一人ぐらいは、2重手縫い革底技法を俎上にのせ、この技法の整合性についても

の言うのがいてもいいだろう。

よく誤解されるが、この2重手縫い革底技法(フルハンド)を拒否し評価に値し

ないと言っているのではない。

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ワークショツプ モゲを通過し渡英した大川由紀子が、かの地で靴技を学び、10年後に帰国、独立するにあたっての助走期、モゲ ワークショップ内でおよそ3年、ハンドソーンウエルテッド プロセスのインショップをはじめる。条件は一つ「スタディ」をいれてもらう。この期間モゲワーカーズに必修せよとは言わないが、ほとんど自分の意思でこの靴技を実習、経験する。
「手づくり靴」の評価は、どの様な技法であってもつくり手は、横並びで共存しなければならないと思っている。ただ、この技法のもつ属性を至上と位置づけ高見にたとうとする輩に、手づくり靴の論旨にてらしてnoと言わざるを得ない。

現に、手づくり靴の底付け技法の類の一つとして、とにかく望むのであれば、こ

の技法を手に通して体験しなさいと奨励している。そこから何を感じとり、どう

評価するか、それは市場での上下、優劣の縦価値系で評価するか、互いにみとめ

合う豊かな暮らしの文化を並列にする横価値系のどちらに加担するか、個々人の

属性の領域問題となる。

まだ、2重手縫い革底の専修機関が浅草に一つしかない頃から、その専修機関に

通い技法を手につけるモゲの同人がかなりいた。

その専修機関で、必ず聞かれるのは「いいまで靴をつくつたことがありますか」

と充当な問いがあり「モゲで」と答えると「あぁ、セメントの人ね」と言うそう

である。

この「セメントの人」と、この底づけ技法を侮蔑し靴の優劣評価をする人たちの、

なんとも情けない属性と言わざるを得ない。

靴の底づけ技法の一つとして、かっての職人たちのように無言で、淡々と、粛々

と作業するのと違い、この技法を至上として声高らかに饒舌(スノッブ・マガジン

の巷聞程度の情報)すぎる弁は、手づくり靴の本意、本義とは、まったくもって

かかわりのない、俗説の戯言として聞き流すことのできる人はともかく、鵜呑

みにして靴の本場 ? ヨーロッパへ、ヨーロッパヘと草木もなびく様は尋常では

なく、けっか相当数の靴流民をうみだしている。

知己のイタリア革業者曰く「ヨーロッパ文明は、強度の階級社会構造でなりたっ

ていてもはや靴職人は、白人系は皆無、ほとんど後進国の有色人種、日本は先進

国だと思っているのに、かくも靴職人志望の日本人がヨーロッパに押し寄せてく

るのか理解できない」と聞いて「日本人も有色人種ですよ」と返すが、2重手縫

い革底の職手とスノッブ・マガジンが結託し幻想をふりまく原罪は重い。

男・性の属性は、生理と相まって性の拡張、つまり血筋、地位、資産、知能など

とにかく「男は威張る」ことしか能がないという言う方があるが、まさしく2重

手縫い革底の技法は「威張る」と同質であるのもうなずける。

この技法を熟達するのに年季がかかる技法とするのは、先達の保身技法と解する

のはどうだろう。

現近代の文化が目指すのは「個の自由闊達な精神の拡張と自立精神の促進」とす

るが、そうであるならば技術 (=生きる力)は、またこの精神と歩調を合わせて

しかるべきだと思うし、この何人も希求する生き方にそった技術でなければなら

ない。

2重手縫い革底技法という特殊解を作品にしなければ優位にたてないと思わせる

狭量の技術ではなく、何人も老弱男女、参加できる一般解の広量の技術に変換し

て、ともに生きる共存の仕組み (= ワークショップ) と、さらにアクティブに

社会とのかかわりを深めていくことの意味を「技術」としたい。

たんに靴技だけで「どうだ」と誇示する輩のなんとさもしいことか。

いま技術に、もつとも希求するのは、社会とかかわるアクチャリティである。

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06/14 pm 05:00

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