2010/ Jun _ 07

靴をどう評価するか/ 用具か作品か

あるTV番組企画の打診があり、求めいるのは古典的な職人の像になにがなんで

もおしこんでくる。

そこで、ここを通過していった人たちが各地で根をはり、それぞれが自分の手

で靴をつくり、靴づくりをとおして、なにが豊かな暮らしなのか感じとるワー

クシヨップをたちあげ活動しているので、そこを訪ね歩るくのはどうでしょ

う・・・と申しでるがボツになる。

玄人の職人芸の粋をつくし「どうだ、まいったかー」と鎮座ますます仰々しい

作品が絵になり、素人が自らの手でなんの屈託もなく感じるまま紡ぎだす暮ら

しの用・具などは絵にならないと思っているのだろう。

あなたはどちらに加担するのだろう。

手づくりは、[もの]をつくるのではなく、つくることを通して[こと]をみきわ

める・・・生き活きした暮らしの鼓動をつくることだと思っているので、靴の

「○○作品展」というものに出向かなくなって久しい。

どうしてって暮らしの用・具は作品ではないし、作品にしてはダメだと思う。

「私はいままで、靴を暮らしの用としてつくってきましたが、近頃世の中のこ

とに問題意識をもっようになって、つくる手元をみていたら、つくるものが、

このようになってきました。そのことについて、お茶でもしながらお話しでき

たらと思っています展」だったらいそいそと出向くことだろう。

人それぞれ、自分が暮らしたいように暮らしているはずである・・・とすると

手づくり靴の「展」は、その人の住まいの入り口か玄関に並べてある、その人

の日常履きの靴である。

普段着がいちばん美しく、また美しくなければならない。

また「日常茶飯美」。

この2つの言葉は手づくり靴のもっとも普遍の意味をあらわしている。

genkan01

これは [Arne] カバー、いまはなきシューデザイナー高田喜佐さんの葉山のセカンドハウスの「玄関展」、売る靴と暮らしの履物との落差が面白い。

これはモゲワーカーズOGの「玄関展」である。

genkan2 oh0

この10年、こんな靴を自分の手でつくって暮らしてきました。その靴をもってきてもらい一堂に会すると、なにを大事にして暮らしてきたか、彼女の生き様がありありと浮かびでてくる。
つくるということとは、このことをいうのだろう。
いちども足入れしたことのない「作品展」よりも、手づくり靴の「展」は履き込み暮らしの襞をきざみこんだ靴のなんと美しいことだろう。

「売る」ためにつくりだされる靴は、手づくり靴のたち位置からは評価するこ

とはしない。評価するのは、暮らしの玄関口に並ぶ靴だけである。

玄関に並んでいる日頃履きは、その人の暮らしぶりの輪郭を際立たせ生き方の

方位をしめしている。

履きもしない靴を3Dみたいに前面とびたして、つくり手がよく見えないのを

「靴の後ろにかくれるな」と 近頃言い出している。

そして、あんたは偉いと巷間いわれている俗っぽいトッピックス程度の権威に

おもねて虚勢を張る、こわばったツラしかみせない、なさけないつくり手連中

に、今いちど書き留めよう。

「自らの思だけでなく、だれにとってもそのように思うであろうし、なぜその

ように思うか筋道を質し、だれにでもわかるような仕方で論証しなければなら

ない」

わたしは、ものことを評価するとき、いつも念頭におく言葉にしている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
06/07 am 05 : 00

カテゴリー:日々考日 | Edit