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2014/ Aug _ 12

 いつも途上にいる

つれづれなるままに、文字をつづっていくと、はじめに意図した主題と違

う方位にながれていくコトが多い。それはそれで面白いと思っている。

「靴のワークシヨップをはじめたい」と職人の大御所に話したとき・・・

「素人は怖いね、素人に靴が出来るわけ無いだろう。」と云われた。

それから30年・・・

2011/4/15 ・発行「靴の文化史」 稲川実・山本芳美 (現代書館)の一節

に、ある60代の男性は、次のような懸念を述べ手いる。

「これだけ靴の学校ができて、注文靴をやろうという人がでているけど、

製靴工場で働こうという人がいない。業県自体も体力がなくなって就職先

を用意できないのも問題だけど、肝心の学生たちも工場で働く気がない。

そういう人は経験もなく中途半端な腕なのに、靴づくり教室を問くんです。

でもね、何年かは人をだませるか知らないけど、被害に遭うのはお客さんで

あり、生徒さんですよ。

つくりっぱなしだし。こんなことやっていて、手縫いの靴にお客さんが本当

に戻ってくるかどうか、ね」。

このような浅草の御仁たちが、浅草を、こんなに体たらくにした張本人とい

う自戒がまったくない。

浅草という既製靴製造の本丸が、もはや「生きる」「生き抜く」生命力を

失ってバニシング・ポイント(消滅点)へ向かって疾走している認知もない。

このような浅草の論理に絶望、切迫した次世代が、必死で、靴の本意をもと

め靴を介して「生きる途」があるはずだと、集団分業から離脱し、いちばん

小さな単位、個にもどり、さらに小さな身体部位の手で模索し、手で実践

し、手づくり靴で「生きる途」を心意にもとめ、あらたな途を創りあげてき

たのである。

だから、この「60代の男性」の言は、見過ごすわけにはいかない。

「ある60代・・・」などとぼかさないで、はっきり名乗りなさい。

もし知ってる人がいたら、教えてほしいと思っている。

主題は「なぜ手づくり靴のつくり手が、既製市場が要請する商業主義に包含

される、アーティスト症候と技能技芸至上に陥るか」。

このコトは、靴にとっても不幸なコトであり、つくり手(シゴトにする場合)

にとっても、実は不幸なことになるからである。

靴の一義は、身体合理の本質をみきわめ、靴という歩行具を具体する技法で

あって、その表象(靴の型)は、つくり手の「生きざま」の発露となり、暮ら

しという括りで、共感、共有することに価値をみいだし、その過程を大切に

する、これは手だけができるコトだと思うからである。

「生きるみち」を「途」とするのは、人生はいつも途上にあり、過程と思う

からである。だからつくった靴を「作品」と銘して終止符をうつわけにはい

かない。またこの項も、主題からづれてしまった。

(あるスタバの、ゆつたりとしたソファで)

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2014/0812 pm 05:30

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