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2007/ Mar _ 17

分類という思想。 

1月末に引っ越して、もう1ヶ月半経つというのに、未だに部屋の整理がつか

ない。時間がとれないこともあるが、中々進まない元凶は本類にある。

図書館方式の十進分類法よろしく哲学、社会、自然、市場、美術、文学、な

どを [ 類 ]として大分けし、さらに[ 網 ] [ 目 ] と小分けしなければならな

いほどの蔵書でないにしても、7棹をある書架に場所ぎめして分類整理してい

くのだが、分類項に当てはまらないものが続出して、あうでもない、こうで

もないとやっているものだから、ますます混迷して収拾のつかないことにな

り、この仕事は、かなりの分類能力と労力と時間がいる。

また感慨のある本が出てくると、ひとしきり読みだしたりするので、いくら

時間があっても遅々として進まない。

手にとった本が皮肉にも「分類という思想」。

1

そういえばこの本の表題に魅かれて購入したことを思いだし、改めて斜め読

みしてみる。

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著者は「分類することは思想を構築することだ・・・と私は思う。しかし、

ほとんどの人はそうはおもっておらず、分類はただの道具だと思っているか

も知れない。

われわれの日常は、のべつまくなしの分類作業だといっても過言ではない。

目の前のものが食えるか食えないか。この男は敵か味方かそれ以外か。特定

の異性をセックスの対象と見做すべきか否か。

分類は道具でなく、生きること自体である。

あまりにも慣れ親しんだ事柄には、人はたいてい無意識になってしまう。多

くの人は、自分が特定の分類様式に従って世界を眺めていることすら、意識

していないのではないかと思う。本書は、分類の専門家ですら余り真面目に

考えた事がないと思われる、分類するとはどういうことか、分類の根拠とか

について私の考えを書いたものである・・・云々、

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この冒頭の書き出しに、

いたく感慨するものがあつた。

分類とは,だだ便宜的に仕分けすることだと思っていたが、この本で人は

諸々の価値の分類体系の中で暮らしている・・・とするなら この世の森羅

万象を [ 類 ] [ 綱 ] [ 目 ] 項に分類できる知見は、とりもなおさず世界観を

構築する手だてとして身につけなければならない能力といえるのではないか。

まだ整理の途上ではあるが、書架に分類された本の背にある表題を見ている

と、その分類一覧は「思い想い」の自分史であり、この集合はたしかに [ 俗

するもの ] への諦観が、意固地までも一筋通っているなぁ・・・と自分の生

き様のモニュメントに見える。

いま「創る」という論考を追い求めていくと・・・

グラフィック、プロダクトデザイン類の論評は微々たるもので、「靴がいち

ばん小さな建築」とする思いからか、建築分類項の冊量に驚く。

手にした表題が「負ける建築」。

この本を通読したときの感慨がよみがえる。

この言は、くりかえしつたえなければならない言葉だと思っている。

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象徴にも、

視覚にも依存せず、

私有という欲望にも依存しないで、

何が可能かをさぐっていきたい。

「強い」建築をたちあげる動機となった、

それらのすべての欲望から、

いかにして自由になれるか。

そんな気持ちをこめて「負ける建築」というタイトルをつけた。

とすれば、逆にこれほど楽観的で明るい本はない。

突出し、

勝ち誇る建築でなく、

地べたにはいっくばり、

様々な外力を受けながら、しかも明るい建築というのがありえるのではない

か・・・著者・隈研吾の言である。

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勝ち誇る [ 正 ] の側 にたつのでなく、[ 手 ]負いの人生74年、いつも [ 負 ]

の側にたって、観るべきものを観て来たつもりの身上としては、よくぞ言っ

てくれました・・・と喝采する。

存在の耐え難き軽さが跋扈する「○○靴展」と称する累々は、果たしてこの

言葉に耐え得るものが在りや無しや。

「分類という思想」

「負ける建築」

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(初稿) 03/16 pm 09:00

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