2006/ Oct _ 01

手づくり靴はフィクションでない理由。脱稿10/01 pm11:00

手づくり靴と既製靴の領域についての対比チャートでは・・・

既製靴はコンセブトメイキングによるフィクションであり、手づくり靴

は、ベンチワークによるドキュメンタリーである・・・と仕分けしている。

手づくり靴も既製靴も靴そのものは「物」である。その「物」の意味するも

のは、他者とどのようにかかわりたいかによって違ってくるはずである。

他者とのかかわりを既製靴は「物語」にもとめ、手ずくり靴は「事語」に

もとめる。

その意味は・・・

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手づくり靴のかかわりは・・・

履きたい靴を自分の手でつくりたい人と顔をつきあわせつくる過程を共有

すること、

既製靴では対応できない人、なんらかの原因で歩行がままならないの人の

靴を医療の領域ではなく靴の領域内で、その人の足で靴をつくるアクチュア

ルな仕事になるために、そのプロセスはフィクションではなくドキュメンタ

リーにならざるを得ない。

ドキュメンタリーは「事語り」で目には見えない「事」に手をつくし歩行で

の不具合を正し、身体で感じる感覚が評価される技術である。

そこにはコンセプトメイキングによるストリー (物語)をつくる作家的資質は

必要としない。

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他方既製靴は、手の所作ではまかなえきれない数量を超えて「複製し拡散」

する量的な合理のプロセスあり履く人の足がなくても、いくらでもつくる規

格機械靴 であるために、その無機質を補う意味で物語 = 作品をつくる意外

に他者とかかわる術がない。故に既製靴の仕事はシューデザイナーの領域で

成りあがる功の物語 をつくらなければ評価されない。身体性よりも手とりば

やい視覚を特化することになる。

手づくりとは対位する領域で、手の所作でこの領域に踏み込むのは無謀とし

か云いようがない。手づくり靴で仕事をすることを望みながら作家的志向の

強い人は、この意味で自己矛盾していることに気がつかなければならない。

その矛盾は出口のない迷路でありその迷路に迷い込んで朽ち果てた人をどれ

だけ見て来たことか。

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今日(9月27日)、早朝所用で表参道ハナエ・モリビルの前を通るとファ

01 02

ザードに面したウォールギャラリーで「shoe zoo」という動物を模した

フィクション靴展があつた。

つくり手はウエノビさんという人である。

動物を模した靴の「物語」は、これまでも多くの人が幼児靴で手がけてき

対象で、さして広がりのある魅せるべき「大きな物語」ではない。

手づくり靴でもこの手の「展」が多いが、所詮既製靴畑でシューデザイナー

を欲し功名を望む手立で、他者とかかわる強い意識がない薄っぺらな自分本

位の「利己展」にすぎず、人をつきうごかす力はない。

「展」は、その物語 = 主義に、つきうごかされ生きる力を感じとる「大きな

物語」でなければ、とてもできない話である。

人は「大きな物語」をもとめて久しいが、技術革新の「大きな物語」はあっ

ても、生きる力が湧き出る「大きな物語」をつくり得ない「物語喪失時代」

に在ると云われ、故に時代は混迷している。

その混迷した時代だからこそ・・・

暮らしに立ち返り、

暮らしを問い直し、

その意識と感性を手で紡ぐみ形にしていく。

この「小さな小さな事語り」の積み重ねが、やがて次の時代を指し示す「大

きな物語」につながっていくのではなかろうか。

「私は、近頃暮らしの中で、こんな事柄を考えていたら、つくっている靴が

自然にこんな形になりました。この靴から足と靴のいいかわりについてみな

さんと話がしたくて、このような集まりをもちました・・・」これが今望む

「展」の形だと思っている。

その展を「玄関展」と云っている。

03(玄関に並ぶ、自分の履く靴を、全部自分でつくつた人の靴)

そこに在る靴は、一度も足入れしたことの無いフィクションの靴ではなく、

その人の「日頃履いている靴 」である。その靴こそつくり手のステキな暮ら

しのドキュメトが形になっているはずだ。

これが手づくり靴の本質である。

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(初稿) 10/01 pm 08 : 00

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