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2006/ Feb _ 12

自在に生きる、その一。

ターンテーブルをもとに戻すように、かならずもどってくる処が「老子」の

言葉である。老子にかんする書籍は数あるが、今、座右にあるのは、王 明さ

んの著書「老子 (全) 自在に生きる81章」地湧社刊である。

手づくりで手仕事にしたい、と思い立ってから、いつも戻ってくる処、心の

寄り処が「老子」の言葉であり、ここに戻って来ては、心してまた踏み出し

ていく。

「手」「手の働き」、この手にたいする思いは40年にわたり、一貫して生き

方の支えになっている。

「手」をジッーと見る。「手」は自在に働くのに生き方も手の働きのように

どうして自在に生きることができないのか、「手」は自在である。この在処

はまぎれもない。

では自在に生きるのは、この「手」に托し道をみつけなければならない。

そして、その道の道標が「老子」の教えがあつた。

「老子」は紀元前 5 世紀頃の思想家で、その履歴はよくわかっていないが、

「道と徳の老子道徳経」として 21 世紀にいたる今も生きづづけている。

第 1章が「道」から始め 37章までを 「道経」。

38章から最後の81章までを「徳経」。

と呼ばれ、合わせて「道徳経」とも呼ばれる。「老子」の言葉 81章はどこか

ら読んでも道」に繋がるといわれ、全部で五千字ほどの文字しかないがその

思想は、はかりしれない。

また「老子」は「こうすべきである」ではなく、「老子」を心にする人は

様々なイメージをうけるが、この自由さがいい。

  1. 章は「不思議の不思議」、王 明さんの訳文を掲げてみるので、どのように

感じとれるか、目を通してほしい。

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これは真理 ( タオ ) だと口にしたところで

それがトータルで絶対的な

真理 ( タオ ) ではあり得ない

何かある物を名付けてみたところで

すべては変化の中の

ひとつの過程にすぎない

いま仮に

宇宙の始まりを

無と名付けるならば

万物を生み出したものを

有と名付けてもよいだろう

それゆえに わたしは

形なきものに妙なるものを感じ

形あるものに

物事の発端とその展開を

みせようと思うのである

無と有はただ

その名を異にするだけで

同時に存在し

不思議は不思議であり

すべて妙なるものが現れる門であると言えることができるのである

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うけとり方は様々でいい。なにもこの一文に解釈をくわえることは意味しな

い。一言ひとことが心に染入るが・・・

「これは真理 ( タオ ) だと口にしたところで、それがトータルで絶対的な真

理 ( タオ ) ではあり得ない。何かある物を名付けてみたところですべては変

化の中のひとつの過程にすぎない」

この初めのくだりがに、いつもたち返る。そしてこの言葉からまた自分の生

きる「道」をみつけ一歩を踏み出してきた。

また「形の有と形の無」について、思いをはせるが自分の中では混沌として

いまだに思い悩んでいる。この思い悩みこそ「老子」のいう・・・

「不思議は不思議であり、すべて妙なるものが現れる門であると言えること

ができる」は、この「妙なるもモノコト」を思い、考え、考えあぐねても、

このことが大切なんだよ・・・といっているのかも知れない。

自在に生きるの教えからみると、狭義なうけとり方かもしれないが、手の働

きで自在に生きるには、「雇われなくてもできる仕事 =技術」でなければな

らないことだけは、声を大にして言えると思う。

そして、手仕事を思い立つて20年、手さぐりしながら、老子の教えにそって

「道のり」にひとつ一つ「道標」をたてながら歩いてきたつもりである。

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(初稿) 02/12 am 08 : 00

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