top    information    diyers    blog1    blog2    map    mail

2006/ Feb _ 11

表参道ヒルズに思う。

新聞では、2月11日は「原宿の新しい歴史の一歩」と表参道ヒルズのオープ

ンをパプリシティ・キットのコメントをそのまま転載したようなヘッドで

持ち上げている。パブリシティ・キットとは、メディア向けパーティに配布

されるお土産のなかにはいっているもので、当事者の都合と意図まみれに

なったメッセージのことである。それをそのままニュースで流すのが慣例に

なっている。

hills1 hills2 hills3 hills5 hills6jpg

それで表参道ヒルズを「原宿の新しい歴史の一歩」にしてしまう。そしてみ

んな「そうなんだ」と思いこまされて、事実として固定していく。そして情

報を流す側の思うつぼにはまってしまう。

9日は一般招待日ということで出かけてみた。招待といっても工事中「ご近所

の皆様にお迷惑かけました・・・招待」である。

思うのだが・・・

地方市で問題視されている、シャッター商店通りといわれるように、地元資

本の商店が廃業に追い込まれるのは、人口減による過疎化もあるが、もう

一つは、地元資本でない外部の大資本による大型総合店舗の参入の煽りで廃

業、倒産に追い込まれ商店通りが歯抜けになってしまい、地元の暮らしを支

え、暮らしの彩りを染め上げて来たその土地固有の暮らし文化を外部大資本

が踏みにじっていく。そしてどこを切っても金太郎飴ではないが、全国均一

商業地域に統合されてしまう。

「原宿の新しい歴史の一歩」と、この地域に新規参入する当事者は、多分本

気でそう思っているのだろう。

今は北青山だが神宮前に仕事の拠点を1962年に構えて2004年までの40年

原宿の表層的な喧噪風景ではなく、身体が知覚している、原宿が原宿になっ

た原風景が、モゲにとってどのように形づくられたか、順に追って見たい・・・

1963年。オリンピックのためにワシントンハイツが返還される。

横田と福生などのG I 文化と違い、将校クラスのアメリカ上流文化の影響も

あって、まだ原宿というよりも、参道で両側には将校の軍礼装服のテーラー

とか、東洋美術のオリエンタル・バザーとか、そうそうワシントンハイツ御

用達の紀伊国屋などが点在していて、当初からバタ臭い雰囲気があり、ワシ

ントンハイツの存在が、まず原宿の下地になったと思っている。

西洋風をバター臭いといったのが、つまって「バタ臭い」となったのだと、

ごくごく最近知った。

ワシントンハイツのイメージは、目にしみる鮮やかなグリーンに白い個建て

のシャレタ宿舎が点在していて、それはもう羨望の風景であった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1964年、今の遊歩道・キャットストリートは渋谷川にフタをしてできた。渋

谷川暗渠工事が完成し、それから3年たって遊歩道として開放された。

後年、この遊歩道に若者の露天がちらほら出現し、裏原宿で括くられる文化

の兆しは、このキャットストリートから始まったと思っている。

sibuya060211(暗渠工事の入る前のキャット・ストリート)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1958年前後、この地域に高層住宅ビルが建ち始め、その一つがセントラルア

パートで、のちに若者のライフスタイルの枠組みをつくる文化の発信地にな

った。モゲがクリエイティブ & マーケティング・エイジェンシィー 「レマ

ン」をセントラルアパートで立ち上げたのが1962年、まだ仕事場とする人よ

りも居住する人が多かった頃である。同業としては、マーケティング・セン

ター、B C C (ビジュアル・コミュニケーション・センター) とレマンの3社

位だつたと記憶している。今話題になつている「セントラルアパート物語」

は1970年頃の話で、モゲの頃は、この「セントラルアパート物語」の前史と

いう位置にある。当時毎週土曜日に開いていた、原宿のムーブメントの一

つであったレマンのオープンパーティーは、夜の遊び場のなかった原宿で

「集まる」場として、今でも語り草になつている。

sentral060211(ガラス入り格子の外壁は当時はなかった)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

原宿が原宿になったモニュメントが1970年である。セントラルアパートの建

物と隣の建物の隙間つくった大川ひとみさんの「ミルク」がブティックの発

祥の地となった存在を忘れることができない。この事例にならって、資本力

のない若い服飾デザイナーがせ堰を切って原宿に集合し、本来店舗として考

えようのない場を創造拠点として活動を始める。そのエネルギーが竹下通の

出現に結びついて、さらに「裏原宿」につながっていく。

何年頃か定かではないが表参道の角の伊藤病院を入った右手の仮設建物がフ

リーマーケットになって、コムデギャルソンを立ち上げる前の川久保怜さん

の小間や、靴の「マイエ」の金田さんがつくりはじめた厚底スニーカーの小

間があって、忘れることのできない「ひとこま」である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして1978年、原宿の景観にとってなくてはならなかった白い教会の場に

このたびの「表参道ヒルズ」の森ビルが「ラフォーレ」を竣工させた。

商業エリアの進展は、結局、若い世代の弱小資本であるが夢と情念をかけて

地ならししたエリアに大資本のデベロッパーが、ずかずか、これ見よがしに

瞬時に進出する図式は、まあーしようがないにしろ、小さな若い創造する力

が試行錯誤し相当量の時間をかけて醸成したエリアなんだ・・・という事実

は忘れてはいけない。

表参道ヒルズの参入は・・・

まあ、金があるが知恵のない人が、すでにできあがったモノコトを、金の力

で、あたかも自分が創りだしたかのように振るまい、金がないが知恵のある

連中を蹴り散らして、できるだけ高邁な能書きをつくりあげ君臨するクラス

マーケットや有名ブランドがのし上がりかたに似ている。

まあ、ある意味では痛快だったのはラフォーレのオープン当初は、土地デベ

ロッパーが、右も左もわからない小売り業に進出するわけだから、デパート

並みの有名ブランドを頼り、安直にかき集めオープンしたが業績は惨憺たる

ありさまで窮地に追い込まれていた。

一方セントラルアパートの1階フロア、地下駐車場を小間割りして弱小資本の

若手のフリーマーケットになつていてその盛況は大変なものがあった。1階フ

ロアには、スタイリストの先駆であっ旧友の堀切ミロさんのショップ、宮崎

ビルとのかかわりで盟友になった岩永正敏さんの輸入レコード「パイド・パ

イパー・ハウス」があった。

中庭にはオープンカフェがあり、セントラルアパート界隈のコミュニティの

中心をなす場であつた。

窮地に追い込まれたラフォーレが、セントラルアパートの業態をそっくりパ

クッて現在の盛況に繋げている。そして当事者はあたかも自分の力で原宿

の盟主になった気になっている。

六本木ヒルズ、表参道ヒルズといい、仰ぎ見る丘(ヒルズ)にそびえる象徴の

出現は40年にわたり、こよなく愛したに青春の心象風景であった同潤会ア

パートが、表参道ヒルズによって増々メインストリート化に拍車がかかり思

い出の地としてどんどん遠ざかっていく。

原宿に大手資本が参入しだした1978年以降、1984年に「ビブレ」などが進

出して表参道が一変していく。「ビブレ」は閉店に追い込まれるまで、原宿

に同化できなく、原宿に居を構え仕事をもち暮らす人たちとは無縁の存在で

あった。多分「表参道ヒルズ」も同じ運命をたどるだろう。

「パパス」の前身「マドマゼル ノンノン」がセントラルアパート 1 階の竹下

側にショップを構えていた、その創始者・荒巻某がラフォーレ進出に最後ま

で抵抗していたのも忘れられない。

dojun_060211(1965年頃の同潤会アパート、付近にビルらしき建物はなかった)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「立ち止まらないで、前へお進みください」ラフォーレの恒例バーゲンの同

じ凄号を背にうけてヒルズをあとにする。

ひとまわりしたが、目を引く新しい業態には出合えなかった。

「表参道に、新しいメディアが生まれます。人と人、人と空間、そして空間

と街並み。それぞれのイマジネーションが触発しあい、新しい時代を発信す

る場所へ。刺激的な発見にあふれ、訪れるたびにクリエイティブな感性を

アップデートできる場所へ。M E D I A S H I P ・・・街と人の 新しい可

能性をのせて、表参道から、世界へ・・・」

この企画屋の通り一遍のメッセージにのって今日2月11日、オープンする

が、本当のオープンは、テナントがどのような軌道を選択とていくか、結論

は10年後だと思っている。このメッセージ通りに果たして形になっていくか

見物である。

「住吉の長屋」の住宅で注目された当時「自分の暮らしの場から、ゲタ履き

で出かけ、いつでも見にいける周囲にしか建物はつくりたくない」という言

にも共感したときからの贔屓にしている建築家、安藤忠雄さんの顔があった

が遠目から見ていて「都市の記憶は蔑ろにするわけにはいかない」といくら

概念づけても、同潤会アパートにはあった暮らしの気配がない、ただ空から

ドーンと振って来た、、大型でモノを売るだけの大型商業「施設」が原宿の

メインストリート化を目論み居座るのは、土地デベロッパーの土地の値段を

つりあげる思惑であり、いくら旧建物を一部再現しても永年この地域で暮ら

しを共にしてきた人たちの「街の記憶」に居座ることはできないない。

かって若い夢と情念と情熱が原宿の原風景を時間をかけて創り上げてきたよ

うに、これから原宿の記憶は、表参道ヒルズや海外の有名ブランドショップ

ではなく、むしろ裏原宿に集まる若い人たちの心に沈殿していくと思う。

表参道の両サイドで偉容を誇るビル群は屏風のようにそそり立ち、人が住

み、暮らしがある風景を増々見せないように、これからも遮蔽していくこと

だろう。

sento060211 onden060211

神宮前6丁目界隈の住人の暮らしのは隠田商店通りに負っていた。この商店通りにある、銭湯・桜湯と参道にある山城生花店を原宿が原宿らしさを保持するシンボルとして見立てていたが2年ほどまえ到頭消滅してしまた。土地デベロッパーは、シロ蟻のごとく都市開発の美名にかくれて原宿の暮らしを追いつめていく) 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ケヤ木と同じ高さにとどめたヒルズのは原宿の原風景への配慮であり、辛う

じて踏みとどまっている。辛うじて・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(初稿) 02/11 am 10 : 00
(脱稿) 02/12 am 06 : 30 

カテゴリー:日々考日 | Edit