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2006/ Feb _ 07

「近づく」「離れる」。

前にも触れたことがあるが、「近づく」と「離れる」この間を意識して行っ

たり来たりすることが、いかに大事なことか気づいている人は少ない。

たしかに人は何かにとり憑くと、とことんその本質に迫り、より近づくこと

に執念するが、逆に、穴を掘り過ぎて、その穴から出られなくなり、何も見

るコト、聞くコト、感じとるコトができなくなった人にかぎって、自分で自

分を「靴匠」といったりする。

「匠」がとことん手をかけ技芸をつくし誰も履くコトのできない靴を作品と

称して誇らしげに「どうだ、まいつたか」と目の前に突き出されても、困る

のである。

あえて言葉にすると「だれも履ことのできないこの靴は儚い靴ですね」とな

る。さらに「靴は人が履くから、難儀なんですよね」とつづける。

「専門馬鹿」という言葉があるように、モノ・コトを極めたいと思う気持ち

はモノづくりの王道であろう。

しかし、あくまで「極めたい」であって「極めた」と言い切ることは出来な

い。究極の靴なんてあるわけが無いからだ。このトコロを履き違うと自分で

「靴匠」にしてしまい、コレが究極の靴なんて平気で言えるようになる。

その靴には他者とのかかわりよりも・・「どうだ、まいつたか」と利己心と

自尊心をむき出しにすることとに重きをおく。あげくの果てに「人の目を圧

等する究極の至芸」とか「この靴は、いわば芸術だから、できれば履かない

で欲い」と段々、下々を睥睨する態度になっていく。

なぜ首までどっぷり靴だけにに浸かってしまうのか、この人たちは、世の中

は自分の靴が中心に回っていると思っているに違いない。そうでなければ、

このような大仰な態度にはならない筈だ。

世は森羅万象の大器の中にあり、靴だけに留まって大仰にふる舞ってはいら

れない。

靴を思い、靴を知るコトを望むなら、できるだけ靴から離れてみるコトも必

要である。

離れて、四方八方、あらゆる具象、あらゆる事象にたいして、謙虚に目をひ

らき、耳をかたむけ、心をひろげ、ゆたかな感性と知見をもつ方が、案外

靴を客体化し知るコトができる。

技芸をつくし「匠」という功名を得ることだけに辛苦しないで、心豊にして

暮らしのなんたるかに思いをはせれば、おのずと靴が何たるかみえてくる

筈。

靴から離れてみなさい・・・

靴から離れるコトが、靴を知るいちばんの手だてになる。

暮らしに「匠」なんて居なくていい。暮らしの玄人なんて気持ち悪い。

暮らしは、みんな素人なんだ。

モゲワークシヨツプで靴をつくつている240人の素人の靴を見てご覧、靴は玄

人の専攻項ではないコトを思い知る。むしろ思い知らなければならない。

玄人が、この素人の靴を、素人がつくったと認めない、認めたくない心情は

わかるが、暮らしの用は手の内の所作でなりたっているとすると、なにも玄

人に頼らなくても、暮らしの靴は、素人の手の内の所作で賄うことは、なん

の不思議でも何でもない。

そろそろ、養成校の卒業展なるものが始まるが、靴をつくるコトを特別なコ

トなんだと思っているとしたら大きな間違いである。靴は誰でもつくれると

いう位置から靴を、もう一度みなおしてみてはどうだろう。

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(初稿) 02/07 am 04 : 30

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