2005/ Jun _ 25

希望という地平 26

とくにワーカーズOBの個展案内通知をうけとるたびに、複雑な思いがある

あくまで「手づくり靴」を仕事にする立場からであるが、その立場からする

と今までくりかえし述べてきたように、「展」と「新作受注会」を明確に切

り離しなさい、曖昧にしなさんな、という思いが在るからだ。

その案内の紹介をWSで紹介するときに「展」を「新作受注会」とか「新作

即売会」と変換している。

「展」は何が何でも行こうという気になるが、「受注会」とか「即売会」で

あれば、ことさら行くこともないからである。

既製靴の市場の仕組みは、シーズンプログラムにしたがって顧客対象に催す

「新作受注会」は企業の存続に欠かせない行事である。これをやらないと自

社の存在が危うくなってしまう。

そして行事に目論でくるのはモード、トレンドといった「売れる」モノと、

目さきの面白いモノである。しかも「売れ足の早い」モノでそのシーズンで

売れ切ってしまうモノでなければならない。

これがマーチャンダイジングでありマーケティングノ手法である。

この仕組みは、既製靴の仕組みなのに、なぜこの仕組みに手づくり靴をのせ

なければならないのか、「手づくり靴」は既製靴の市場の仕組からスピンア

ウトするところから始めなければ仕事にならない。

このことがわからないから、いつまでも既製靴業界にへばりついていて、あ

げくの果ては靴難民となる・・・

それでも「展」と銘を打つのであれば、それなりの厳しい評価に曝される覚

悟がいる。

「創」の表出に深い想いをもって接し、感動したいのは、モノそのものでは

なくその表出に、「生きる自由のコトガラ」を見たいからである。

現実にしばられ、身動きできない状況から解き放ってくれる「創」を求めて

止まないからである・・・と思うと一生の内に何度「展」と銘を打つことが

できるか、ラジカルに考えるなら「創」は自由に生きるのイメージを先見

するが故に、場合によっては時代に殉教する覚悟がいる。

アーティスト、クリエイターとカナ文字の綴りになって、かくも軽々しく

なっているのも商業主義が要請するからである。

「創」とは「生きる技術」とおき変えいいる。

ニューヨークのブロードウェイの出し物は、初演が不評なら一日で終演す

る。批評、批判のないものに惹き付けられない。

かってミヤケイッセイが、なぜパリコレに参加するのかという問いに、ひと

こと「向こうには批評、批判」があると答えていた。

つくり手も、また批評、批判という客観を願い、自分を見詰め直したいから

である。

「新作受注会」「新作即売会」の案内がくるたびに、どうして、こうもモノ

にこだわり過ぎるのかと思う。

ワーカーズに、よくこういう問いをする。

目で見えるモノ、目に見えないコト。

手をかける、手をつくす。この言葉を結びつけなさいというと、

目で見えるモノには手をかける。

目に見えないコトに手をつくす。と自然に返ってくる。

「新作受注会」「新作即売会」の特質は、いかに手をかけたかを目にみえる

ようにする、いわゆるショーアップしているに過ぎない。透けてみえるのは

作家性(デザイナー)と有名性である。

手のかかる手縫い革底の技法を「人の目を圧倒する高級テクニック」と言っ

た人がいたがそれだけのコトではないか。

作家性と有名性を求めるなら定性量的に市場を席巻しなければならない、自

分で丸ごと靴をつくっていたのでは、追っ付かない。靴をつくる技術を手に

つけることより、デザイン、マーチャンダイジング、マーケティングの技法

を取得し既製靴(履く人の足がなくても木型があれば靴はできる)の量産エン

ジンを駆動して市場参入することだ。

このところ、靴業界の催し事に、製靴養成機関の靴を作品展として参加要請

がくるが、個人参加は別にして、モゲワークショップとしては一切参加しな

い。参加するの人は、願わくば既製靴業界に作家性をアピールして仕事にあ

りつく機会として捉えているのだろう。

これは手づくり靴の領域ではない。手づくり靴は永劫に無名で在る。

なぜなら、手づくり靴は(履く人の足が無ければ靴はできない)の足に思いを

かけ、目にみえないことに手をつくしてつくるのが仕事だからである。

手づくり靴は「モノよりコト」と言いつづける理由である。

モノにとらわれすぎて、私たちを取り囲む暮らしのコトガラを忘れ去られて

いる。

「モノからコト」へ転換する、これが手づくり靴に求めるコトである。

「つくる」とは暮らしのカタチ、ライフスタイルの創出と解釈している。

「展」をやるなら・・・

「私は今、自由にいきる暮らしを求めています。色々感じながら靴をつくつ

ていますが、いまこのことに感心をもって暮らしていたら、つくる靴がこう

なってきました。自分でも新鮮な驚きを感じています。この靴のおかげで、

とても気持ちがいい日々をこの1年暮らすことができました。だれも履いたこ

とのない新作とちがって、履き込んだ靴ですが私の暮らしの痕跡がでていて

益々靴はモノではなく、暮らしのコトガラだと思っています。

これも手づくり靴だからできることだと思っています。

この靴を肴にして、私が感心をもってるコトガラについて、みなさんとお話

をしたくて、このような集まりをもちました・展」・・・

かなり文字数の多い「展」になったが、手づくり靴「展」はこういうことだ

と思っている。

小島章栄 (ワーカーズOB)の「mar works」が、小島の手ほどきでつくっ

た人ちたちの靴を披露したことがあつたが、手づくり靴の「展」のひとつの

カタチだろう。こういう「展」は喜んで出かけたくなる。

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だから深沢直人を注目しなければならないのだ。いま一度、深沢直人の言葉

を噛みしめてみよう。

「日常の生活の中に普通に存在しつつ、何か遠い感覚を呼び起こすよう

なデザインをしたい。

当たり前でありながらその価値に気づくようなことで、

無いものを得た喜びてせはなく、

在ることを知った「気づき」の喜びである。

最近は皆、脳で感動したがっている。

感動は思考によるものだと思い込んでいる。

だからいつも新しい思考を求め、

つくる側はデザインに意味を持たせようとしてしまう。

感覚を呼び起こす記憶は、たとえそれが視覚的なものであったとしても

脳の記憶てはない。

身体的な視覚の感触である。

環境のリアリティを感じとれるということは感動である。

実在するもう1つの世界をみる思いがする。

だぶん身体の感覚が喜ぶようなデザインは意識的なものでないから日常

生活のなかで余計に突出しない。

余計な存在感のないデザインがいい。

作者の意図が見えにくいということは、受け手の解釈に広がりや自由度

ができるということで、「いいなぁ」という気持ちの理由は受け手側に

委ねられ、それが作品に深みを与える。

説明のつかない感覚の合意こそデザインの価値だ。

デザインは自分側てせはなく、向こう側にあるという感覚を持つように

なってから、環境の中にある人の行為の残像を通して「モノ」「コト」

が見えるようになった。

デザインの痕跡を残さないということだ。デザインをやりすぎると受け

手の意識に触れる。

人もモノも意識的であることは最も美から遠いことだと思っている。」

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この言葉に加えて手づくり靴という立場の違いから、私はデザインのいう概

念を排除している。深沢直人のデザインの言を靴に置き換えて再度目を通す

と、もってはっきりしてくる。

ロクロに粘土をのせ、手の平と指で自分を表出する、この器はだれもデザイ

ンといわないのと、同じ理由からである。

なぜ排除するかはデザインのもつ量産、管理、統合といつたタガを嫌悪する

からである

深沢直人がいうように・・・

「デザインの痕跡を残さないということだ。デザインをやりすぎると受け

手の意識に触れる。人もモノも意識的であることは最も美から遠いことだと

思っている。」

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靴作家をきどり、ちょっと絵心があります程度の安っぽい我をおしつけてく

る、それが邪魔臭いのだ。

専門家面して人の暮らしに、どかどか入いりこんできなさんなと言いたい。

今は、暮らしで自分の履く靴を自分の感性と美意識でつくる人のほうが、あ

なたたちより、ずーとステキな人たちですよ。

この人たちの存在を知っても、なお、あなたは作家だと押し切れますか。

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ここで、手づくり靴の仕事をディヤーズ、オーダー、ワーカーズ、の3つと

もうひとつある。

それは自分の靴をつくること、なぜそれが仕事と訝しむだらうが、手づくり

靴の仕事は、私事であるからだ。

大向こうを意識しない、自分の暮らしぶりの創出こそ、嘘、隠し事、特化、

気取り、偉そうにしない、などなど、その人暮らしの生地にふれることがで

きる。

いちばん大事なのは、自分の靴かもしれない。

荒涼とした地平を後にして、手さぐりであったが、20年の長い道のりをかけ

て、何事にも代え難い「自由」を手にして、好きな靴づくりができる至福の

日々を身体で感じとつている。年々、新たなコトガラを積み重かさるられる

のも、手に托し、手で考えることが身についてきたからだろう。

この手づくり靴を仕事にする仕組みは、特異な仕組みではなく誰でも気概が

あれば、成し得る仕組みだと言う普遍性がモゲワークショップが求めてやま

ない思いである。

希望という平地はここまで。

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毎年歳時記のようにこの時期になると「四角いスイス」が話題にされる。

四角い箱にいれて「手をかける」。味はいまいちだが一個一万円で、客寄せ

パンダ、贈答用として捌けるそうだ。

スイカは甘くて、美味しく、さらに健康に充分留意することに「手をつく

す」ことのほうが大事なはず。

私たちは、けして四角い、醜いスイカはつくらない。

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6月のさいごの土曜日、今日は工房の大掃除になる。

終わってから手伝ってくれたワークアップの連中と食事する。

いつも行きつけのカフェ・farg (03-3401-5057)カレーが逸品。

いつも固い話をすることになるので、今日は、雑談の域にとめといた。

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