2005/ Jun _ 08

希望という地平 14

靴をつくる技法を手につけた人は、自分は普通の人には出来ない難しい技術をも

っているんだなんて気負わないことだ。

手のうちでつくるモノは「おにぎり」をにぎれる人は、みんなそれなりにつくる

ことができる。

浅草の分業職手が遊びにきて、ディヤーズ (自分の履く靴を自分でつくっている

人) の靴を手にとるので、その人は素人で、それが初めてつくっている靴と言っ

ても、こんなに素人が出来るはずがないと言って、けして認めようとしない。

認めてしまうと、自分の存在が危うくなるからである。

その職人に、素人が自分でつくりたいと言い出しても、素人にできるはずがない

オレがつくってやるよ、となるだろう。自分で履く靴は自分でつくるのがいちば

ん良いという考えには至らない。

靴を自分の手でつくるとは、つくる段取りをひとつひとつ手で確かめながらつ

くっていくこと。

この行為に他ならないとすると、自分でつくりたいという人がいたら、手ほどき

をして、つくる過程を共有した方が、深く、広くかかわっていくことができる。

注文の靴を頼みに来た人が、自分でつくってみたいと言ったとき、素人には無理

だよといってしまっていたら、手づくり靴を仕事にする道はなかった。

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このひと言が、つくるという本来の意味を教えてくれた。

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別の話になるが・・・

器をつくっている人に、「陶工」ですかというと不機嫌な顔をする。

「陶芸」ですかというと機嫌がよくなる。「工」と「芸」の違いだが、

「芸」は作家であり功名をのぞみ、有名性を切望する。

「工」は永劫に無名であり、暮らしに根をもって用をつくす、気張らず、たんた

んとカタチにする。用をつくすことで美がカタチになることを願う。

「陶芸」の人が、「あいつも陶芸教室をやるようになったか」と蔑んで言ったこ

とがある。あくまで作家であるなら教室などという見下げたことはするべきでな

いと思っている。

ある人が、「私の靴は、いわば芸術だ、できれば履かないでほしい」と言ったと

き、奇異な感じがしたが、考えてみると高名な陶芸家の「器」はつかうためのも

のではないのと同じ風に考えているとしたら、本人にとっては当然の言だろう。

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「教室」でなくなぜ「ワークショップ」なのか。

ワークショップという [場」に集まり、靴をつくることを通して、つくり手が何

を感じとって、どう変わっていくのか「感じとること」が暮らしにとっていち

ばん大切なことだと気がつく・・・だからワークショップなのだ。

ワークショップは、「教室」という技法を伝える側と受ける側が、たんに利便的

に機能するだけの [場] ではない。

「陶芸」が蔑む [場] とは違う。

靴作家を目論む人にとって、靴の技法をつたえることは、格落ちになるといって

玩としてやりたがらない人がいる。

この人たちはモノの域から出な人だから、いくら、コトガラを伝える方が、ステ

キなことだと言ってもしょうない話でまったく通じない。

なぜつくるか、つくる行為とは、暮らしを豊にするコミュニケーションの行為と

しなければ面白くない。

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シューフェアで併設されている、若手靴職人 SHOES + ART 作品展に出品して

いる人たちは、多分 [作家 = デザイナー = 功名] を望む人たちだろう。

しかし、これから仕事に結びつけたいと考えての出品だとしたら、どんな道筋を考

えているのだろう。シューフェアに出展するからには、既存の仕組みの領域での

仕事を望んでいるのだろう。

製造部門や問屋部門に拾われて、企画の仕事を足かがかりにして、既製靴の手順

を身につけ、自分で製造部門を立ち上げ、さらにブランド化ができればという道

筋で、製造部門で分業職手をねがっている訳ではあるまい。

いくら手づくり風既製靴、手製靴と銘うっても、これは 「手」からの離脱である。

この道筋は、「シューフィル・ライブ」でもコメントがあったように、市場とか

かわるマーケティング能力の力量が問題であり、靴がつくれるだけでは通用しない

分野である。

かって浅草の大手問屋を凌駕した企画問屋は、みんなシューデザイナーとマーケ

ティング能力のある人が組んで市場に参入したのであって、靴をつくる技をもっ

てる人だけでは手に負えない分野なのだ。靴を自分の手でつくる職人志望より、

シューデザイナーになるか、問屋の営業部門で市場の仕組み、売り方を身につ

ける方がブランド (というにはおこがましいが) を立ち上げるのに適している。

しかし、考えてみるといい。既存の仕組みが今、出口のない荒涼とした地平にあ

る。

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一貫して述べてきたことは、既存の仕組みには、手づくり靴を仕事にする [場]

はないという認識がなくては始まらない。このことを疎んじるわけにはいかない。

既存の仕組みに留まるのも試練、この地平での試練は不毛である。

既存の仕組みから離脱し自分で仕組みをつくるのも試練、同じ試練なら既存の

仕組みに寄添うより、自分が自立できる力をつける方が着実に実績を重ねて、自

分で納得いく答えが出していける。

答えのだせるところが「希望という地平」である。

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散漫になってしまったが、ワークショップは、自分で履く靴は、自分の暮らしの

感性と美意識でつくるのがいちばんいいのであって、、作家と称する人が入り込

んでくる分野ではない。作家と称する人の思い上がりが邪魔なのだ。

そして靴をつくる技法を手にもっているなら、自分でつくりたい人と出会ったら

つくるプロセスを共有する気持ちのいい [場] を用意すること。

毎月公開しているディヤーズの人たちがつくった靴をみるがいい。玄人が素人と

見下げている人たちが、ここまでの靴をつくっている世界があるということを想

像だけでもしてみたらいかがだろう。

とくに若手靴職人 SHOES + ART 作品展に出品して [作家 = デザイナー = 功名]

を願って気負っている人、あなたたちよりステキな人たちが、あなたたちの偏狭

な世界でなく、生き活きと暮らしで息づいている靴を、素人の身でつくっているのです。

私がいつまでも素人でいたいのは、つくる意味がわかるからです。

今、モゲワークショップのディヤーズには、もう15年も通っている人を筆頭に

230人のステキな人たちが毎週、元気な顔を見せてくれます。

01 02 03 04 05 06 07 08 09

小さな「ひとり」

小さな 「手」

手づくり靴が仕事になるのは、230の「手」がモゲワークショップに集まり、

その手が仕事になる目を開かしてくれるのです。

人が集まる [場] をつくることが手づくり靴の仕事なのです。

つづく。

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